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私が開院した理由

私が開院した理由

こんにちは。
無痛整体 らくらく堂 院長の宮崎です。

私がなぜ、今、こうして整体院を開業しているのか
ということを書かせていただきます。

ちょっと長くなりそうですが、
よろしかったらおつき合いください。

私は今56歳です。
今から10年ほど前、私は福島県に住んでいました。
そうです東日本大震災で大きな被害を受けた福島県です。
そこで私は生まれて初めて病院に入院するという体験をしました。

夏のある日、家族と一緒に南会津郡の大内宿という
観光名所を散策して帰宅したとたん、脇腹が痛くなり、
あぶら汗がたらたら流れ出しました。
やがて激痛のため呼吸もできない程になりました。
こりゃ、普通じゃない!
と思った私は、妻に頼んで救急車を呼んでもらいました。

あの時の痛みは今でも忘れられません。
もう、死ぬかも!と思いました。

でも、笑い話のようですが、担架で救急車に運ばれる間に
痛みはすっかり無くなってしまったのです!
ピーーポ~~ピーーポ~~・・・・・
サイレンを鳴らして走る救急車の中には、
いつもの元気な私(^_^;)が乗っていたのです。

結局、検査のために入院した方がいいということになり、
1ヶ月以上入院するはめになりました。
でも入院期間中、痛みはまったく無し。
痛かったのは担架で救急車に運ばれている時まで(笑;)

しかし入院してからが大変で、
点滴、内視鏡検査やエコー検査、MRIなど
いろいろな検査を受けまくりました。
最終的には総胆管に結石が残っているので、
内視鏡を使って砕いて排除することになったのでした。

それまで私はヨガや自然食療法などをやっていたため、
健康にはかなり自信がありました。
ですから、1ヶ月も入院するなんて、
まさに予想もしていない出来ごとでした。

しかしその1ヶ月間に、
私の人生観が大きく変わったのです。


一ヶ月も入院している間には、
次から次へと入院する人が入ってきます。
もちろん良くなって退院する人もいますが、
より重症者用の病室に移る人もいます。
中には4度目の入院というお得意さん(?)もいました。
病院で苦しんで亡くなる人もいました。

そういう人たちや、病人であふれかえっている
病院を見ているうちに、
「日本の治療医学がどれだけ発達しても意味があるのだろうか?」
と疑問を感じるようになったのです。

一冊の本

そんな時、ある方が
「退屈だろうから・・」と、
お見舞いに一冊の本を持ってきてくれました。
その中に次のような記事が載っていました
「中国の医者は自分の担当する村が決まっていて、
その村から病人が少なかった医者が最も給料が高い。
病人の治療に駆けずり回った医者ほど給料が安く、
予防医学を徹底した医者ほど給料が高い。」
という記事でした。

これを見た瞬間、私はハンマーで
頭を殴られたような気持ちになりました。
医療に対する疑問が氷解した瞬間でした。


それ以来、私は
「病気にならない人を増やすことに貢献したい」
と思うようになりました。

ようし!今まで学んできた健康に対する知識を生かし、
病院に通わなくてもいい人、
病気で死ななくてもいい人を増やす!
そのための力になろう!
この考えは日に日に強くなっていきました。

そして身体を整える整体こそが
自分の目指すべき道だと確信するようになったのです。


思い立ったらすぐにでも行動に移したくなるのが
私の子供のころからのクセ。
でも、当時私は福祉系の仕事に勤務していて、
いろいろ考えると、
やはり転職は無理!というのが結論でした。

そんなとき突然富山県に転勤になったのです。
そして間もなくあの東日本大震災!!

もし、転勤が無くあのまま福島県にいたら、
いろいろな復興作業に追われ恐らく転職は
無理だったろうと思います。
否、そもそも生きていなかったかも知れません。

震災で家や職を失ってしまった友人たちが、
一から出直そうと懸命に努力していることを思うと、
自分も新たな第一歩を踏み出さなければ、
と思うようになりました。

よし、整体を志すのは今だ!今しかない!
と思い、私は富山での勤務生活を続けながら
大阪の整体学校に通い、整体の学びを本格的に
開始することにしました。


私が通ったのは、日本回復整体総合学院の
副学長をされていた故 村松幸彦先生の愛弟子、
西田聡先生が主催する心身楽々堂整体法講座でした。

もともと私は、何か仕事をして大儲けしようとか、
贅沢な生活をしようとか、そういう気持ちが
薄い人間でした。
親からよく言われました
「護はほんとに無欲だねー」と。。。
いや、ほんとは無欲なんかじゃないんです。
欲しいものが違うだけなんですよね。
青臭いと言われるかも知れませんが、物やお金って、
人生かけて求めるものじゃない、って思うんです。
何があっても絶対に色あせないもの、
そういうものが欲しい人間なんです、私は。

整体学校を探すときにも、自然と
そういう尺度で選択肢をしぼっていきました。
その結果、行き着いたのが
西田聡先生が主催する心身楽々堂整体法講座だったのです。

西田先生の師、村松先生は
「私はただ治すだけ、ただ稼ぐだけの整体師は
もう育てない」
と決意され、高い志を持って
西田先生はじめ、ごく少数のお弟子さんたちを
育てられました。
そして整体法(無痛自然療法)の極意を伝授されました。
西田先生は、整体法の技術はもちろんですが、
故 村松先生のご意志を引き継ぎ、
本物の整体法の普及に全力で取り組んでおられました。

よろしかったら西田先生のブログをお読みください。
   ↓↓↓
  西田先生のブログ

私は、整体という仕事に対して、これ程までに高い想いを
持っていらっしゃる西田先生に巡り逢えたのも、
偶然ではないと思っています。
この巡り逢わせを絶対に無駄にしたくない、
との想いで、私は真剣に学び続けました。

一番初めに行ったのは、記録的な猛吹雪のときでした。
北陸自動車道は視界がゼロ、
ワイパーをやってもやらなくても、
とにかく前が見えない状態(>_<)
結局、武生ICで通行不能となり、引き返すことに・・・。
でも、この困難が
私の情熱をよけいかき立てることになりました。

勤務生活を続けながら、1年弱学びつづけ、
その間に開業資金を準備し、
やっと前職を退職することになりました。

そして、それからは更に1年間かけて
無痛自然療法の総合講座を徹底して学びました。
全力で手技を磨き、脳みそに汗をかいて勉強しました。
こんなに勉強したのは、学生時代以来でした。


たった一度の入院期間中に出逢った1冊の本。
その本の中にあった言葉に触発されて整体の道にめざめ、
西田先生という高い志をもった師に巡り逢えたこと。
家族や友人たちの理解と協力。
それらのお陰で、今の自分がいます。

あの本に書いてあった中国の医者のように、
自分で自分の健康を管理できる人を増やすために、
私は貢献していきたいと思っています。

整体師の役割とは、
痛みを取ることだけではなく、
患者さんが自らの人生を切り開いてゆく、
そんな姿をしっかり支えることだと思っています。

医師は命を救うために全力を尽くし、
我々はその救われた命をどこまでも輝かせることが
仕事だと思います。

どこに行ったら治るのか分からず、
途方に暮れている人、諦めてしまった人、
探す気力もなくなってしまった人・・・・。
そんな医療に迷える人たちが、自分らしさを取り戻し、
安心して本当の自分に戻れる、
そんな場所を作っていきたい。
これがいま自分を動かしている力そのものです。

その想いが、この大好きな白山の地でようやく
花を咲かせようとしています。
今日はどんな人とめぐり逢えるのか、
どんな人の“力”になることが出来るのか、
それが楽しみで、日々研さんに励んでいます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

院長  宮崎 護    

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